ぼくらの世代の文化 −引用とリスペクト− |
「ぼくらの世代の」と書くとおこがましいと怒られてしまいそうなのだが、ぼくと同年代のミュージシャンや作家、漫画家、映像作家などなどがそれぞれのシーンで中心となるべく活躍をはじめている。ジャンルによってはもう既に地位を確立し、中心となって活動している人も多くいる。 そんな中、ふとぼくと同じ世代が創り出す文化は後の時代にどのように称されるのだろうかと思った。ルネッサンスや文明開化ほどの大きなうねりではなくとも、何か特徴があるのではないかと。 ぼくたちの世代は恵まれていると思う。偉大なる先人達が様々なジャンルにおいてその表現手法や地位を確立してくれ、その土壌の上で創作活動をすることができるから。そして、「引用とリスペクト」により創作活動に幅を広げることができるから。そして、新たな表現方法を産み出すことができるから。 偉大なる先人達は絶えず新しい発想や表現手法を開拓することに尽力せざるをえなかったと思う。受け手も新たな刺激を求めていたし、創り手も誰かと同じ発想を善しとしていなかったと。石ノ森章太郎「サイボーグ009」第6巻のラストシーンは上手い引用を使ったと評した「BSマンガ夜話」に対し、石森プロが猛抗議をしたところに、「創造物=未知の発想」という概念を持ちつづけた先人達の意思が見えていると思う。 また、10年くらい前までは受け手にも引用やリスペクトによる創造物に対し、「パクリ」という言葉を投げかけていたと思う。ラジオ番組では邦楽の元ネタ探しが流行し、「YOUNG BLOOD」以降の佐野元春の低迷期を演出してしまった。ドリの「決戦は金曜日」のエンディングが槍玉に挙げられたことも。 しかし、発想の泉も無限ではない。「パクリ」のレッテルをまのがれるためにとられた手段がパロディ。引用を笑いに置き換え、「パクリ」と呼ばれる行為自体を笑い飛ばす。パロディをクッションとして、ぼくらの世代の「引用とリスペクト」が芽生えていく。 先にも述べたが、ぼくらの世代の文化は先人達の功績の上に成り立っている。先人達の創造物が一般的な規定概念として認知されたことにより、それら創造物の影響により新しい創造物が創られることが一般的に受け入れられるようになった。先人達の創造物が自然や科学と同等の意味を持ち、人々に浸透したからこそ生まれた文化が「引用とリスペクト」によるぼくらの世代の文化だと思う。 音楽の世界では引用は厳しく扱われたが、リスペクトに対しては以前から認知されていた部分もある。「Yesterday Once More」や「『いちご白書』をもう一度」、「オリビアを聴きながら」などはそれぞれ楽曲・映画・ミュージシャンとリスペクトの対象は異なるものの、名曲としての評価を受けている。しかし、手法を引用した曲についての評価は低い。 これに対してぼくらの世代はというと、奥田民生が「ビートルズの再構築」を堂々と唱えて多くの支持を得ている。ヒップホップでは名曲をfeaturし、DANCE☆MANは懐かしのソウルを引用した編曲を楽しんでいる。これらに対し、「パクリ」と批判をする受け手はもうどこにもいない。トリュビュートアルバムや「PUNCH THE MONKEY」のようなアルバムも好調なセールスを見せている。 映画界では名作を意識させることで新作に深みをつけるような引用が使われている。阪本順治監督の「傷だらけの天使」は萩原健一と水谷豊の名作ドラマをモチーフにしながらも、豊川悦司と真木蔵人でまったく違う物語を構築している。豊川悦司と真木蔵人だけがドラマの萩原健一と水谷豊の関係と同じだということを、受け手はタイトルを見ただけで想像することができる。「新・仁義なき戦い」でも原作者が同じ飯干晃一ということもあるけれど、ネームバリュームを生かしてまったく異なる作品を創り出している。 また、作品ではなく役者を引用しているものもある。林海象監督は”探偵・濱マイクシリーズ”で宍戸錠を実名で登場させている。永瀬正敏演じる主人公・濱マイクの師匠となる探偵の役である。その風情・たたずまいを見ると、映画ファンなら誰もが「エースのジョーが後にマイクを指導したのか」と思っただろう。当然そんな回顧シーンは映画のどの部分にも存在しない。けれども設定を巧みに引用することで、受け手に「食いしん坊万歳の宍戸錠ではなくエースのジョー」のイメージを与え、物語に深みをつけている。濱マイクもマイク・ハーマーのもじりだったりと、随所に「引用とリスペクト」の跡が伺える。 宍戸錠を実名で配した例がもうひとつ。堤幸彦監督「溺れる魚」がそれ。椎名桔平演じる主人公・白洲刑事が大の宍戸錠ファンで、ファッションを真似たり、カラオケで宍戸錠の歌を熱唱する。ところがこちらは引用というよりもネタとしてのイメージが強く、宍戸錠本人の登場場面も笑いの一部となってしまっている。つまり、「引用とリスペクト」というよりもパロディで、ぼくらよりもひとつ上の世代のセンスなのだろう。”探偵・濱マイクシリーズ”よりも製作・公開がはるかに遅いとはいえ、こればかりは監督のセンスだから。 映画のワンシーンを引用したのが本広克行監督の「スペーストラベラーズ」。そのラストを観た人の多くが「明日に向かって撃て」を思い出したに違いない。圧倒的に不利な状況で冷静に考えればどう見たって答えはひとつなんだけど、受け手の多くに「いやっ、それでも彼らは・・・」と希望を持たせてくれるあのラストシーンを。違うアプローチであのシーンがはまる映画があったなんて、それだけで映画ファンは感動してしまう。また、物語の要所を'80年代日本サンライズ調のアニメが担っているのも上手い「引用とリスペクト」だ。 アニメを引用したといえば石井克人監督の「PARTY7」。オープニングでアメリカンコミック的な絵柄のアニメを用いている。絵柄の持つ軽快さが本編のイメージを表しているという意味では、アメリカンコミックをリスペクトし、手法を見事に引用したといえるのではないか。 文学の世界では既に村上春樹が「ノルウェイの森」を発表し大ベストセラーとなっているし、昨今の小説の中で歌詞やフレーズが引用されることはごく当たり前となっている。 そしてマンガ界では対照的な二人を通して物語を構成する松本大洋。松本大洋の功績については計り知れないものがあるので、また別の機会にじっくりと。 「引用とリスペクト」。ぼくらの世代の文化に、その発想や表現方法として大きな位置を示すとともに、先人達の残した遺産をぼくらのさらに下の世代へ繋げていくための大きな手段となっていると思う。 |
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