『提灯の上で酔いましょう』
第一話 地獄の沙汰も…
永代通りに面したマッチ箱のようなビルの一階のはじに、大きな赤提灯が掛けられている。営団地下鉄東西線の木場と東陽町の中間に位置するこの辺は、片道三車線の永代通りに景観を揃えるかのように新しいビルや高層マンションが立ち並んでいる。築地・月島・深川・門前仲町と続く下町風情が色をひそめる中、その赤提灯だけが孤軍奮闘しているように見える。昼どきにはOLでにぎわう一階のテナントの小洒落たパン屋も、午後五時の赤提灯の登場ですっかり萎縮しているように章太には思えた。ようやく傾き始めた陽射しにとって変わろうとする赤提灯は、章太にとっての憩いの場『美味処もりや』の営業を告げていた。 パン屋の脇の細い階段を一気に駈け上がる。狭い踊り場の右手のガラス戸を開けると、章太は上機嫌に声をあげた。 「ただいま。」 入り口は細長い長方形の店内の長辺の中央に当たる。右側は永代通りに面した小上がりで、、四人掛け用の卓が四つ置かれている。中央から左側はL字のカウンターで、正面に四つ、小上がり側に二つの椅子が並んでいる。 「おかえり。」 カウンターの奥から白髪をパリっと七・三に揃えたマスターが、凛とした声で答えてくれる。赤提灯がポイントの飲み屋の店主なら「おやじ」と呼びたくもなるのだが、五十という年齢には珍しい180p程の長身をかがめることなくカウンター内で調理・接客する姿を見ると、ちょっとはばかれてしまう。それでも気取ることのない気さくな振る舞いが、章太には心地良かった。 章太は正面カウンターの一番左の椅子に腰掛け、一息ついた。 「やっぱり章ちゃんだ。ここの階段駈け上がってくるの章ちゃんくらいだもんね。山ごもりはもう終わったの?」 おばちゃんが温かいおしぼりを章太に差し出す。おばちゃんは昼間会うとジーンズにシャツをラフに着てたりするが、『もりや』営業中は清楚な着物姿に変身する。この"日本の母"的雰囲気がマスター及び赤提灯にとても良く合っていると章太は思う。マスターを「おやじ」と呼べないのであれば、おばちゃんは「ママ」と呼ばねばならないのかも知れないのだが、マスターが「おばちゃん」と呼ぶのでおばちゃんは「おばちゃん」のままである。どうやらマスターよりも歳上らしい。 「昨日の夜帰ってきたんだ。もうすっかり蚊が出てきちゃって、刺されまくって痒いの何の。あと蜘蛛の巣。山歩いててちょっと油断すると顔面に張り付いてるの。これがなかなか取れなくて…あっ、昨日風呂に入ったから今日は大丈夫だからね。」 章太はもらったおしぼりで手を拭い、それを広げると眼鏡を外して顔を拭いた。数年前の章太ならその行為はタブーであり、連れが顔を拭いたりしたら「ジジくせえことするなよ」と顔をしかめさえしていたのだが、最近ではつい自分もやってしまう。それでも、「顔を拭くのは温かいおしぼりの時だけで、冷たいおしぼりの時はやらない」というたがを加えることで今の自分を正当化しようとしたりする。三十路へのカウントダウンが始まった今日この頃、過去の自分が思っていたジジくささが確実に備わってきていることに対するささやかな抵抗なのかも知れない。 「おばちゃん、ビール一本ね。」 おばちゃんは「あいよっ」と返事をしたが、すでに中瓶とコップの乗ったお盆を手にしていた。 「今回はトンネル?ダム?」 マスターがお通しを出しながら訊ねる。 「高速道路の橋の調査。」 「今度は橋かい。毎回違うんだね。またボーリングとか入れたの?」 「そう。あと地表踏査って地面の岩見て歩いたりするのやってたから。」 「山の中で?」 「うん。結局ふた山くまなく歩かされたなあ。」 「やっぱり技術がなくちゃできない仕事だね。」 「んなことないですよ。ただのヤマ師ですから。」 章太は自分の仕事を特別扱いされると決まってこう言って謙遜した。もしかしたら技術がなきゃできない仕事なのかも知れないし、同僚は専門知識にとても長けていたりする。しかし、章太は今勤めている地質調査会社に入るために大学で勉強したわけでもなく、就職活動をしてはじめて地質調査という職種があることを知ったくらいであるから、どうもおこがましくて技術なんて口に出せないでいた。 「実際、自分の調査結果なんて当たっているかどうかわからないから、ヤマ師と同じだろう。」 そんなことを考えながら、章太はビールを飲み干しお通しに箸をつけた。小皿には薄口醤油とみりんで煮込んだピンポン玉大のじゃがいもと玉ねぎ、一口サイズの鶏のささみが乗っていた。 「もう、新玉・新じゃがの季節になっちゃったんだね。山ではずっと山菜だったから下界の季節にうとくなったか。」 「女の子も薄着になってたでしょ。目がいってたんじゃないの?」 おばちゃんは章太の横にきてちゃかすように言うと、開いたグラスにビールを注いだ。章太は軽く会釈して一口飲むと、何か言おうとしてやめた。不意をついて口からでそうになるおやじギャグを何とか理性で封じ込める。数年前なら到底思いつかないようなおやじギャグが、最近は頻繁に脳裏をよぎる。如何ともし難い現実である。 「そういやこないだチャコちゃんが来てたよ。」 「あいつ人妻だっつーのに遊び歩いてるんだ。」 「そんなことないんじゃないの?章ちゃんが山にこもってるんで飲みに行く相手がいないってしきりにぼやいてたよ、若奥様は。」 「マスター、彼女俺より年上なんだから、若くないってーの。」 「俺よりはるかに若いんだからやっぱり若奥様にしとこうよ。」 「マスターも女性には甘いよな。」 「でも私には厳しいですよ。」 おばちゃんがすねたふりをして呟いた。 「俺がおばちゃんに優しくしてどうするさ。」 色白のマスターの顔が少し赤くなった。 「マスター、フェミニストとしては女性の選り好みをしちゃいけないよ。」 マスターは白髪までをも赤く染めるかの勢いで照れて見せた。 「章ちゃん、そうやって人を責めるといい死に方しないぞ。」 「大丈夫ですよ。俺こう見えても品行方正ですから。おばちゃん冷酒ね。あと銀鱈の煮つけ。」 章太は空のビール瓶をふりながら奥にいたおばちゃんに頼んだ。おばちゃんは「あいよっ」と返事をしたが、すでに一合とっくりとお猪口の乗ったお盆を手にしていた。 「でも章ちゃん、女の子に嘘いっぱいついてるって話じゃない。地獄へ堕ちちゃいますよ。」 おばちゃんはとっくりとお猪口を章太の前に置きながら、涼しげにささやいた。 「おばちゃん、なんでこんなとこで寝返るかなあ。誰がそんなこといったの?」 「さあて?」 おばちゃんは空のビール瓶とコップをお盆に乗せると、何事もなかったように奥へと戻ってしまった。 「やっぱり雇用者と使用人の関係ってとこかな。」 マスターは勝ち誇ったように呟くと銀鱈の調理にとりかかった。 「マスターこそ地獄へ堕ちるんじゃないの?」 章太はお猪口の冷酒を一気にあおった。 「でも俺なんかこうやって生き物調理してっから、天国には行けそうにないんだろうなぁ。」 「マスター、なにしんみりしてるの。マスターがさばいたもの俺ら客が食ってるんだから同罪だよ。むしろ直接手を下さない分だけ俺らの方が卑怯かも知れないね。それに、こんなにおいしく料理してるんだから、食材になった生き物だって成仏してるよ。」 「大丈夫、大丈夫。マスターいっつも蜘蛛見つけても蜘蛛は益虫だからって殺さないで逃がしてあげてるから、地獄に堕ちても天から蜘蛛の糸が垂れてくるわよ。」 おばちゃんは子供を諭すような声で優しくささやいた。マスターはにこやかな顔で銀鱈の煮つけの付け添えのほうれん草を皿に盛った。 「でも章ちゃんは山に入って蜘蛛の巣壊しまくってるから、地獄に堕ちても蜘蛛は助けてくれないわね。」 章太はカウンターにつっぷした。 「おばちゃん、きついよ。俺こう見えても虫が嫌いでさ。殺すなんてもってのほかなんだぜ。」 「女の子は殺しても?」 「だから違うって。」 章太はムキになって否定した。さっきまでのマスターの赤ら顔が章太に伝染っていた。おばちゃんはすっかり章太をからかうのに味をしめ、「そうかなぁ」などとささやいた。 「だって、ワラジ虫って知ってる?」 「ゾウリ虫じゃなくて?」 「うん、ダンゴ虫の丸まらないヤツのことを北海道ではワラジ虫って言ってね。俺が学生の頃にいた下宿にいっぱいでたんだよね。」 「なんか汚そうな下宿だね。」 「貧乏学生だったから。俺の学生時代は地方の大学では東京のドラマに出てくる学生みたいなマンション生活って少なかったの。みんな共同トイレで共同炊事場、風呂なんかなかったもん。」 まるで親に問いつめられて必死で言い訳する子供のような口調で、章太は口をとがらせて続けた。 「で、ふと気づくとワラジ虫が部屋の中這ってるの。俺殺せなくって。早くどっかへ行ってくれって、祈ってもん。」 「あれって潰すときにプチって感触残るヤツだろ?」 思い起こすだけでぞっとするあの感触をにこやかに表現しながら、マスターは銀鱈と大根を盛りつけた。章太はもしいくらの醤油漬けを頼んでいたら、平然と食べれなかっただろうと思った。プチっ。 「だからね、俺が地獄に堕ちたりなんかしたらきっとワラジ虫が助けにくるの。大群でワラジ虫柱を天までおっ建てて。」 「それを章ちゃんが登るということか。」 「うーん、でもなんか登ってるときに手足にプチって感触いっぱい残りそうで気持ち悪いなぁ。やめとくわ。」 マスターが銀鱈の煮つけを章太に差し出した。章太はお猪口を空けると、残りわずかとなったとっくりの酒をお猪口に注いで大きくため息をついた。 「結局俺は地獄から這い上がることはできないのか。」 「大丈夫よ。章ちゃんがだました女の子のうち、一人くらいはだまされたことに気づいてないコがきっといるから。そのコが長い髪を天国から垂らしてくれるって。」 章太はお猪口の酒をあおると、声を荒げて言った。 「おばちゃん、冷酒もう一本。」 おばちゃんは「あいよっ」と返事をしたが、すでに一合とっくりの乗ったお盆を手にしていた。 つづく |