『提灯の上で酔いましょう』

第ニ話 胸の鼓動が高まって


 午後五時に終業のベルがなると同時に章太はサンダルから革靴に履きかえると、週刊誌とスポーツ新聞しか入っていない鞄を抱えて周囲を見渡した。同僚の多くがベルの音などかまわずに仕事を続けている。二つ向こうのシマで同様に周囲に目を配っているチャコと視線を合わす。
「OK。」
 言葉にはしないが互いに心で確認すると、章太は足早に戸口へ向かった。そんな章太の動きに課長が気がついた。
「ん?おい、章…」
 
章太を呼び止めようとした言葉を遮るように、課長のデスクの電話がなった。
「もしもし、もしもし。もしもーし。」
 
課長が受話器に叫んでいる隙に、章太は戸口を出てエレベーターに飛び乗った。エレベーターの扉を開けたままにしていると、十秒ほど遅れてチャコが飛び込んできた。
「グッドタイミング。」

 
章太は右手の人差し指を『開』ボタンから『閉』ボタンに移し、そのまま掌を高く上げた。
「まかしときって。」

 チャコは小柄な体をジャンプさせ、ハイタッチをした。しかし、着地の際にエレベーターが大きく揺れたため、二人は壁にへばりついた。

「こんなところで止まったら洒落にならないよな。」
 章太とチャコは二人の勤める地質調査会社がテナントとなっている七階建てのビルを後にして永代通りに出ると、木場から東陽町に向かって歩を進めていた。
  午後五時十分。
  赤提灯が、まだ高い陽射しを浴びていた。
  ドタッ、ドタッ、ドタッ、ドタッ、ドタッ、ガララララ。
「ただいま。」
「おかえり。」
  章太は威勢良く『美味処もりや』に入ると、マスターが普段と変わらぬ返事をした。表の赤提灯に粋なマスター。下町風情の薄れた感のある木場・東陽町界隈で、ここだけが時に流されることなく情緒を醸し出していると章太は思う。
 店内に客はなく、どうやら一番乗りらしい。章太はそのままL字型のカウンターの短辺側の二脚並んだ椅子の奥の方に座った。

「ちょっと章ちゃん、そんなに勢いよく昇ったら階段壊れちゃうよ。あっ、今晩わ。」
  チャコは章太を諭すように言った後、店に入ってマスターに一礼した。下町生まれのチャコも好んでここに来たがると言うことは、チャコも同じこと考えているのだろうと章太は思っている。
「おっ、若奥様、いらっしゃい。」
「だからマスター、若くないって。」
「章ちゃん余計なこと言わないでよ。」
  章太の隣に腰掛けたチャコの右手甲が章太の胸元を軽く叩いた。それは漫才のツッコミが「いい加減にしなさい」の言葉とともに行う仕草とほとんど一緒であった。
「そりゃあ私はもうおばさんの部類だから若くはないですよ。」
  チャコはちょっとすねたふりをしたが、目元・口元は明らかに笑っていた。
「章ちゃん最近忙しいって聞いてたから、しばらく来れないかと思ってたよ。」
  カウンターの中でお通しの支度をしながら、マスターがちょっとうわずった声でたずねた。
「こないだの橋の調査報告の期限が今週いっぱいなんですよ。」
「じゃあ書き終わったんだ。」
「まさか。そんなに仕事早くないですよ、俺は。課長の目をかいくぐって脱出してきたんですから、今日は。」
「そっ、私がナイスアシストしたんですよ。」
  チャコが胸を張ってみせた。マスターはチャコのそんな仕草が元気でいいと常々評価しており、この時も目を細めて二人のやりとりを見つめていた。
「いつもいつも感謝しております。」
  章太は深々と頭を下げてみせたが、目元・口元は明らかに笑っていた。
「チャコちゃん、いらっしゃーい。」
  奥からおばちゃんがおしぼりを2本持った右手を振りながら近づいてきた。
「おじゃましてまーす。」
  チャコもそれに合わせて右手を振った。まるで女子高生のようなはつらつさが見られた。おばちゃんはチャコ、章太に順におしぼりを手渡した。
「ねえ、なんでそう手をふったりするわけ?」
  章太はもらったおしぼりで手を拭きながらチャコに聞いた。
「だって私たち仲良しなんだもんねー。」
  チャコもおしぼりで手を拭きながら、最後の「ねー」の部分でおばちゃんと目を合わせながら答えた。おばちゃんは目を合わせるのに立ち止まった後、次の支度のため、奥へ戻っていった。
「ねーじゃないだろが、まったく。あっ、もしかしておばちゃんに俺が女の子に嘘ばっかついているとか喋っただろ?」
「えっ、何のことかしら?ビール2本お願いします。」
 おばちゃんは「あいよっ」と返事をしたが、すでにビール2本とコップ2つの乗ったお盆を手にしていた。
「男の人っていいよね。おしぼりで顔拭いちゃったりするでしょ。あれ女の子もやりたいと思うけど、化粧のこととかあるから抵抗あるのよね。まあ、私はあんまり化粧してないからいいかもしれないんだけど。」
  チャコは手を拭きをえたおしぼりをたたんでテーブルに置いた。章太のおしぼりは袋の中にあるときのように、円筒状に丸められていた。
「そうかなあ、俺は顔拭いたりしないからさ。そんなこと言って話しずらそうとしてるだろ。」
「えっ?何のことかなぁ。私にはさっぱり見当がつかないなぁ。それって師匠が言ったんじゃないの?とりあえず乾杯しよう。」
  チャコはおばちゃんからビールとコップを受け取ると、コップにビールを注ぎ、ひとつは章太の前へ、もうひとつを右手に持った。
「おつかれさまー。」
  二人はコップを合わせ、一日の労をねぎらった。章太は一気にコップのビールを飲み干すと、「ふーっ」と声を上げた。チャコは「まっ、まっ」などと言いながら章太のコップにビールを注ぎ足した。
  この女、やっぱりごまかそうとしている…という確信めいたものが章太の脳裏をよぎった。
「でも、師匠がおばちゃんに言うわけないでしょうが。師匠は俺の女関係あんまり知らないんだから。」
  章太はちょっと憮然として言い、またコップに口をつけた。
「ってことは師匠にも言えないような後ろめたいことはしてるってことね。そーか、そーか。まっ、前からそうとは思ってたけどね。」
 チャコの言葉で章太は急にむせて咳き込んだ。チャコと2人で飲むと、決まって1回はこのテの話に持ち込まれ、章太は激しく動揺する。毎回「何で俺がつっこまれなければならないの?」と思ってはいるのだが、よく考えるとネタふりはいつも章太であったりする。チャコは章太の自虐的性格を見抜いているかのように、毎回的確なつっこみを入れるが、決してとどめは刺さない。チャコは章太と付き合うこつを「生かさず殺さず」と考え、実践しているようだ。
 マスターはカウンターからお通しの小皿を差し出しながら優しく言った。
「章ちゃん、心拍数が上がると体に悪いって言うよ。」
  今日のお通しはダシでゆでたカブに挽き肉のあんかけがかけてある。
「いただきまーす。おいしそう。」
 チャコはニコニコしながらお通しに箸をつけた。章太はまだ咳き込んでいる。
「そういえばこないだ読んだ本に書いてあったんだけど、ネズミの寿命と象の寿命は象の寿命の方が長いのね。でも、生きている間に打つ心拍数はどっちも同じくらいなんだって。だから、マスターの言葉も嘘じゃないってことよ。」
  まだ息の荒い章太はおしぼりで口元を拭くと、絶え絶えになりながら言った。
「別に、俺、動揺、したり、して、ないから。」
  胸に手をやって深呼吸をする。これでだいぶ章太の息が整った。「となると、小心者は早死にするということか。」
  章太は考え深げに呟き、コップのビールを飲み干した。太めかつ心理的揺さぶりに決して強いとは言えない章太にとっては、他人事ではない問題である。
 チャコは2本目のビールの中身を章太と自分のコップに全て注いだ。
「小心者の程度にもよるんじゃないの?少なくとも章ちゃんは長生きするから安心しなって。憎まれっ子だし。おばちゃん、冷酒2本お願いします。」
 おばちゃんは「あいよっ」と返事をしたが、すでに一合とっくり2本とお猪口2つの乗ったお盆を手にしていた。
「踏み台昇降を何回もやるといけないってことだね。」
「うーん、もりやの階段を駈け上がらないことの方が体のためにもお店のためにもいいと思うな。ちょっとトイレに行ってくるね。」
  立ち上がったチャコを章太は口をとがらせて見た。
「まったく年寄りみたいにトイレが近いんだから。」
  チャコは「はい、はい」と章太を軽くあしらって、トイレのある奥へと向かったが、途中立ち止まってカウンターの中にいるマスターを見た。
「マスター、銀杏とあさりの酒蒸しお願いねっ。」
「あいよっ。」
  マスターがいつになく大きな声で返事をした。
「章ちゃん、チャコちゃんはいつも元気でいいよね。」
  きっとマスターは下町っ子のチャコに合い通ずるものを感じているのではないかと章太は思っている。
  章太はお猪口に冷酒を注ぐと、少し口に含んでクチュクチュと音をたてた。酒に空気を馴染ませる。師匠から教わった日本酒の味わい方だ。女の子と飲む場合は少し下品に見られそうなので、いつも一人になったとき行うようにしている。
「旨い。」
  一人になってようやく我を取り戻したかのように、章太はすっかり忘れていたお通しに箸をつけた。
  おばちゃんはチャコがトイレから出るのを見計らってウォーマーからおしぼりを出すと、袋を破いてチャコに手渡した。
「ありがとう。」
  チャコはもらったおしぼりで手を拭きながら席に戻った。
「んっ、おみやげ貰ってきたな。」
  章太は少しちゃかすような口調でいったが、チャコはそれを気にもとめず、おみやげを折り畳んでテーブルの上に置いた。
「あっ、課長。」
  視線を入り口に向けたチャコが小さくつぶやいた。章太はお通しをつまむ箸を止め、入り口を見やった。入り口のガラス戸に人影が映り、静かに開いた。
「いらっしゃい。」
  マスターの威勢のいい声が店内に響いた。章太の視線は入り口に固定したまま動かなかった。
「今晩わ。」
  そう言ってのれんをかき分けて入ってきた顔は、章太も見たことのある常連さんの顔だった。三人連れの常連さんは入り口から見て右手の小上がりに上がった。
「いらっしゃいませー。」
  おばちゃんはおしぼりを用意して、小股で小上がりへと向かった。
「ふー。」
  大きくため息をつくと、章太はお猪口の冷酒を飲み干した。チャコは章太のお猪口に冷酒を注ぎながら、実に晴れやかな顔で言った。
「ねえねえ、あせった?あせったでしょ。また寿命が縮まったね。」
  章太がお猪口に口を付けたところでチャコは章太の背中を叩いた。章太は再び咳き込んだ。小上がりからの戻りしなにおばちゃんがチャコと章太の間に割って入った。
「章太さん、また顔色がすぐれなくてよ。」
  マスターは笑いをこらえながら、火で炒った銀杏をテーブルに置いた。銀杏の殻の香ばしい匂いが漂った。チャコは早速銀杏に手を伸ばしたが、殻が熱かったため、「あちっ」と言いながら、あわてて手を引っ込めた。
「ちょっと考えたんだけど、恐怖新聞って読んだことある?」
  章太は手酌でお猪口をいっぱいにすると、ちょっと上目使いでチャコに訊ねた。「あるわけないじゃない。だって、一回読んだら百日寿命が縮まるんでしょ。」
  『恐怖新聞』とはつのだじろう作のオカルトマンガである。主人公の高校生のもとに毎晩霊界から翌日の出来事が書かれた新聞が届けられるが、実はこの新聞、読むと百日寿命が縮まる「恐怖新聞」であった。という出だしの物語である。
  章太はマンガの『恐怖新聞』を読んだかどうか聞いたつもりだったのだが、チャコはその中に出てくる「恐怖新聞」と勘違いしているらしい。どのみち会話が通じるので、章太はあえてつっこまずに続けた。
「今思うと実際に恐怖新聞なんか配達されて読んじゃうとすっごく興奮しちゃうと思うんだ、俺。心拍数なんか上がりっ放しだよ、きっと。だから、百日寿命が縮まるのもあながち嘘じゃないってことにならないか?」
  章太は左手を硬く握りゆすると、お猪口の冷酒を飲み干した。
「論理的にはいい線いってると思うけど、百日分の心拍数ってすっごい数じゃないの?そんなに心拍数が急激に上がったら寿命が百日縮まるどころじゃなく、その場で死んじゃうよ。」
 よくもまあこんなくだらないこと短時間で考えるものだと言わんがばかりにチャコがあまりにも冷静に話すので、章太は少し拍子抜けになった。
「全く、夢がない女だこと。」
  章太はふてくされながら空いたお猪口に冷酒を注いだ。
「ふつう女の子は恐怖新聞に夢をはせたりしないわよ。」
  チャコはあくまで冷静にお猪口に口をつけた。
  小上がりの常連さんにお通しを出し終えたおばちゃんがチャコの後ろで開きかけたガラス戸を見た。
「あっ、課長さん。いらっしゃいませ。」
  おばちゃんはお盆を胸に抱えると、小股で奥へと戻っていった。
「また、もう。俺がそう何回も引っかかって動揺するとでも思ってんの?困るよなぁ、甘く見てもらっちゃ。」
  章太はマスターからあさりの酒蒸しを受け取ってから入り口に視線をやったが、その視線は硬直したまま次へ移ることはなかった。
「やっぱりここにいたか、章太。報告書どうする?」
 課長は入り口で仁王立ちのまま、「ふふふっ」と静かに笑った。
  章太の鼓動がクレシェンドしていくのが、チャコにははっきりと見て取れた。
「おつかれさまでした。」
 
おばちゃんはおしぼりを用意すると、小股で課長にかけよった。

     つづく



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